おぼろの景色に佇んで ―織元四代目須本雅子と烏城紬―

()(じょう)(つむぎ)とは何、と聞かれたら

「古里の彩り
  おぼろの景色」

とでも応えましょうか。よく見ると様々な色糸が折り重なり、それを遠くから見るとおぼろげな景色を奏でているのです。

草木染の素朴でやさしい色合い、柔らかな手触り、軽くてあたたかい着心地、手紡ぎ、手織りで風合いの豊かさは、着る人にとっても見る人にとっても心安らぐ織物なのです。

緯糸(よこいと)にからみ糸が特徴

烏城とは、天守閣が黒の板張りの岡山城のこと。あたかもカラスを思わせる黒い外観は、隣県の「白鷺城」との対比で有名です。その岡山県南部、瀬戸内海に近い児島半島灘崎村(はざ)(かわ)、宗津地方中心に約220年前、寛政10年ごろに烏城紬は発祥しました。

当時、この地方一帯は埋め立て地で綿の栽培が備前藩から奨励され、木綿織物の産地でした。木綿の発達と並行して藍染も普及。需要が多かったのがくっきりした縞模様の小倉織(太綿織)で、経糸(たていと)を密に太目な緯糸(よこいと)を打ちこんだ丈夫な布地で、袴地や帯地などに仕立てられました。

しかし時代を経て、素材も綿から絹に代わり、繭から紡いだ糸で紬を織るようになりました。綿織物のときもできるだけ無駄のないように反物の残糸やくず糸を利用していましたが、絹織物になっても同じような織り方をしました。つまり緯糸に残糸や乱れ、虫食いなどの糸やセリプレンという試験糸(繭の糸の太さやふしを調べた糸)を再利用して撚りを出さないように絡ませました。緯糸に絡み糸があることで、筬を打ち込むと織目が絡み丈夫になり風合いが出るのです。着物人口が少なくなった現代はくず糸もセリプレンも出ないので、ブラジルから輸入されたブラタクという糸を利用します。烏城紬を別名「からみ烏城」というのは、糸にこの絡みの特徴があるからです。

伝承館が拠点に

明治維新で大政奉還したことでその名がついた岡山市内の奉還町にある工房に、烏城紬織元の四代目、須本雅子さん(80歳)を訪ねました。ちょうど、烏城紬の伝承館になった家に引っ越したばかり。それまでは、公民館や借りた家で烏城紬の技を多くの女性たちに教えていましたので、「やっと烏城紬の本当の拠点ができた」と保存会のメンバーと共に喜びます。

七〇坪二階建ての家には、8台の高機が置かれています。また染色や精練もできるように外回りにガスコンロや流しなど十分な広さを取り、誰もがいつでも挑戦できるようになりましたが、一度機に経糸をかけたら、織り上がるまでは他の人は使えませんし、精練、染色も時間がかかります。そこで、保存会の人たちがスケジュールを組み、滞らないように上手に運営しています。

保存会とは、須本さんが平成七年から岡山市内の公民館で烏城紬の技を伝えようと始めた講座に通ってきていた弟子達が集まり、技術保存と後継者育成を目的に結成されました。つまり講座の卒業生たちの集まりで、代表は須本さんですが、講座の当初から学んでいる大賀節子さん、日原資子さんが副代表となりました。すでに二人とも23年のキャリアがあるそうです。その他、数年から数十年、続けている会員は50数人です。

後継者育成に成功

糸を紡ぎ、染色し、織る、すべての工程を一人で行うため、短時間では学べません。公民館では月二回、3年間受講します。それだけでは足りないので、卒業したらクラブに入り、さらに学びます。講座は岡西公民館と、発祥の地の灘崎公民館の二か所で開いており、双方合わせて卒業生は延べ百人にもなります。受講者が抽選で選ばれるほど講座は人気で、1~2年待たされる人もいるそうです。クラブ生も講座生も保存会の会員です。
3年に一度の展示会で、会員たちは作品を発表します。さらにそれぞれの力量を試すため、県の美術展などに挑戦し、すでに入選、入賞を果たしているメンバーもいます。

須本さんは「体に覚えさせるほかない」と、講座では手取り足取り教えて、糸や布を触らせて学ばせます。保存会のだれもが「熱心に教えてくれるし、糸を無駄にすると注意される」と言います。絹は生き物、繭は生きているのだからなにより「命を大切に」というのが須本さんの教えです。

主催講座が転機に

須本さんは烏城紬ただ一人の継承者で、その作品は今まで岡山県美術展山陽新聞社賞、全国伝統的工芸品公募展では中小企業長官賞や内閣総理大臣賞、最近では、「2020三井ゴールデン匠賞」のファイナリストにもなり、さまざまな賞を獲得しています。

江戸時代から代々続く織元の長女として生まれた須本さんは、幼いころから跡取りとして周囲からも言われ、自分でも自覚して育ちました。しかし、第二次大戦後の変化、特に着物から洋服に、絹よりウールなどといった衣生活の急変に跡を継ぐ気力をそがれ、親の願いを振り切るように結婚し、神戸に転居しました。しかし、老いていく両親が糸を紡ぎ、機を織り細々と家業に携わる姿に、いつしか手伝い始めました。すでに3人の子供がいましたが、夫を根気よく説き伏せ、一家で実家に戻りました。そして、三代目の父の教えの元、本格的に烏城紬を始めたのです。

父の代には化学染料も使いましたが、着心地、肌触りがどうもしっくりしないことから、あるときから草木染をするようになりました。玉ネギ、梅の枝、桜の皮、藍、ボケ、ビワの葉、シモツケなどを煮出し、ミョウバン、灰汁、石灰、鉄分などの媒染剤を用い薄いグレー、黄色、ピンク、こげ茶、オレンジなどやさしい色合いに染めた糸で手織りしました。そしてさまざまな入選、入賞などを重ねるうち徐々に注目をされるようになります。

転機は平成六年、岡山市立岡西公民館館長から声をかけられたことです。「一人でやっていてはいずれ無くなる。ぜひ郷土の技をみんなに教えてほしい」と。翌年から主催講座が始まりました。現在まで続くこの講座で、一人で守ってきた技術を受講者たちに伝え、多くの弟子を作り、多くの人たちに烏城紬を知ってもらえるようになったのです。保存会として伝承館も構え、これからも多くの人たちに来て、見て、触って、織ってと、これからも活動が広がりそうです。

須本さんは今、「烏城紬のからみを発案した二代目の祖父にかわいがられて育ち、戦後の社会の急変に翻弄された父の苦労、そして烏城紬を見守り、力仕事を手伝ってくれた夫、そして多くの弟子たちが育ったこと」などに思いを巡らせるとき、「やはり自分しか継ぐ人はいなかったのだ、そしてこれでよかったのだ」とつくづく思うのです。

文・関根由子(和くらし・くらぶ)